2009年10月の記事

命の大切さ

我が家のうるる(パピヨン♀9歳)が妊娠した時は1歳5ヶ月。2回目の妊娠だった。

最初の子は残念ながら死産。生まれる寸前までうるるのお腹の中で元気に動いていたので私たちもショックだった。

 

そしてピクシー&うるる夫妻は私達の心配をよそに楽しい家族計画?のもと

うるるちゃん2度目の妊娠。

 

今回は病院での出産を決めました。うるるがまだ子供であり、帝王切開が必要になるかもしれないからです。

 

つわりもひどくて、食事にはかなり気を使いました。今のように愛犬のHPが少なく情報源は同じパピヨン仲間のブリーダーさん。妊婦犬の抱っこの仕方も教えてもらいました。

犬の妊娠期間は約62日前後。最後の数週間でかなり子供が成長します。

子供がお腹の中で動くのでかなり気持ち悪そうな顔をします。

55日ぐらいから検温をします。体温が下がると出産が始まる兆候です。

うるるは妊娠61日目の11月2日♂♀2匹のママになりました。

 

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子供達が離乳食を始めるころまで、このダンボールハウスが親子の部屋になります。

子供達はまだ目が開いていません。

 

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生後2週間過ぎると子供たちも顔がふっくらとしてきます。

 

毎日の体重測定も欠かせません。

 

どんな生き物にも命があります。

その命の大切さを教えていくのも大人である私達の大切な役割のひとつですよね。

 

 

今日という1日に感謝

 

合掌

ほっ^^と出来る場所

今日は我が家の可愛い家族のお話をしたいと思います。

 

最近、内容が硬すぎじゃない?

と2代目よりご指摘がありましたので、今日は緩めの内容で進めたいと思ってマス

 

我が家には11月25日で14歳になるピクシー(犬種:パピヨン)を筆頭に9歳の妻うるる

子供の♀ムーン・♂アース(11月2日で8歳になります)と暮らしています。

 

ピクシーとのご対面は1994年の12月。母親犬と一緒に過ごしている犬小屋から出てきた2匹の可愛い子犬。生後30日ぐらいじゃなかったでしょうか?

 

コートのポケットに入れて帰りたいと思うほど、一目ぼれでした。

 

 

 

「いつになったら引き取れますか?」顔はきっと微笑んでいたと思います。

「母親の母乳をもう少し飲んだ方がいいから1月になったらいつでもOKだよ」

今ではペットショップを経営していらっしゃいますが、当時はトラックの運転手をしながらブリーダーさんをしていました。

引渡しの場所は我が家の事務所。

日時を決めて今度は当時同居していた両親を説得。反対されても我が家に迎えるつもりでしたけど。

 

実家でシェパードを飼っていましたが、家の中で犬を飼うのは始めての経験。

当時はまだ自宅にもPCはなく、本を買っては勉強したものでした。その時見つけたのがパピヨン倶楽部というサークルです。

 

この出会いをきっかけに我流でPCを勉強し、今日があります。

あっ!途中には某有名韓流スターとの出会いがあり、私のPC技は磨かれたのです(笑)

 

家の中でわんちゃんを飼うとトイレの躾が重要ポイントになります。我が家は『おやつ大作戦』で4匹を仕込みました。

少しピクシーとは離れて暮らしておりましたので、トイレの躾は忘れてしまったかと思ったら。3匹と同居をするようになって昔のことを思い出したようです。

子犬の時に覚えたことは忘れないようですよ。

根気欲仕込むことが大切です。

 

仕事を終え、自宅のドアを開けると4匹が元気よく迎えてくれます。

4匹それぞれに性格が異なるので、同じ遊びをさせても反応が異なりそれを見学するのも楽しいです^^

 

自分が安らげる場所や空間を持つことは大切なことです。

自分のほっ^^とする場所ってどこかな?って考えてみてはいかかでしょうか?

 

今日という1日に感謝

 

合掌

極楽往生を目指した念仏結社

結社ね・・・と思い浮かんだのは同じ年代の方ならすぐに分かったでしょう?

 

そうです!世界征服を企む秘密結社「黒十字軍」を倒すため、対抗すべく5人の隊員が結集・ゴレンジャーとなり、江戸川権八こと イーグル司令官の指令のもの、悪に立ち向かう!秘密戦隊ゴレンジャーが頭の中に浮びました^^

赤レンジャーはめちゃくちゃ素敵だったと子供ながらに思った当時を思い出しました。

 

今日のお話とは関係ないんですけど・・・では、本日のお話を始めます^^

 

慶滋保胤(よししげのやすたね)と源信が中心となって25人のメンバーを集めて極楽往生を目指した集団が『二十五三昧会』(にじゅうござんまいえ)です。

 

会の取り決めは慶滋保胤らによって何度が提出されましたが、最終的には源信が12か条にまとめました。

 

その内容はその後の日本全国で臨終から葬儀・お墓のあり方にも大きな影響を与えました。

ではその12か条を見てみましょう。

 

 

1.毎月15日の夜に『不断念仏』をすること(特定の日時を決め、その間は昼夜を問わず念仏を唱えること)

 

1.毎月15日正午を過ぎたら念仏し、それまでは『法華経』を講じること

 

1.15日夜に集まった人々の中から順番を決めて仏前に灯明を捧げること

 

1.「光明真言』で加持した土砂を死者の遺骨に置くこと。(光明真言で加持した土砂を置くと死者は生前の罪の重さは関係なく真言の威力で浄土に往生して蓮華坐上にうまれ菩薩位に登ることができる)

 

1.結衆メンバーが互いに永く父母兄弟の気持ちをもつこと

 

1.結衆メンバーはこれを発願した後は身・口・意の三つの行いを三行を慎む

 

1.結衆に病院が出た時は心配りをする

 

1.小さな建物を建てて、これを『往生院』と名づけて病人を移す

 

1.あらかじめ勝れた場所を占っておいて「安養廟」と名づけて卒塔婆1基を建て、われら結集の墓所とする

 

1.結衆に死者が出た時は葬儀を行って念仏を唱える。

 

1.この取り決めに随わず怠けるものがあるときは結衆から外すこと

 

 

以上の内容から極楽浄土への往生を願念仏結社「二十五三昧会」の仲間たちが、横川・首楞厳院での念仏と「法華経」購読を中心とした信仰生活、病人の取り扱い方、臨終時の対処仕方、墓所とお墓の準備、および埋葬の仕方とその意味、死後の「往生の確認」とその対処など実に結束の固い同士意識のもとで綿密な連携プレーができる組織作りがされたのです。

 

この会の発足のきっかけは源信の『往生要集』です。

この中に「厭離穢土」についても書かれているのです。

 

今日という1日に感謝

 

合掌

時代の流れ

「八百万神」といって日本のカミはたくさん存在します。

 

カミとは本来目に見えず人格を持たない存在です。しかし時代の流れにより自然神としての存在から人格的な存在へと変化していくのです。その原因として考えられるのは当時影響力の強かった天皇や豪族たちがその地位を正当化すようとするためにそれぞれの先祖を神として結びつけたのでは?と考えられるからです。

石や岩をご神体として崇拝した「神道の感覚」がその表れなのかもしれません。

 

時代は移り明治になりますと明治政府によって『神仏分離』政策が行われます。日本人の信仰を神道的要素として仏教的要素に判別することが目的です。そのひとつに「神葬祭」があり、政府は1873年に太政官布告を出して「葬儀は神官僧侶の向きへ相頼むべく候のこと」としました。

 

世の流れとして神道に傾き、支配層はこぞって神葬祭で葬儀をしようとしました。

 

1874年、明治政府は東京に青山・谷中・雑司が谷・染井・亀戸に墓地を開き、寺院墓地以外でも神道のお墓が建てられるように用意しました。

 

明治新政府の政治家の中で早い時期に青山霊園に埋葬されたのが大久保利通です。青山霊園で神葬祭として行われました。

 

谷中霊園にある15代将軍・徳川慶喜のお墓は墳墓です。慶喜は1913年に亡くなりましたが、水戸徳川家の出身だったため、水戸家に準じた神儒習合葬祭を行い歴代将軍霊廟とは別の谷中霊園に祭られました。

(神儒習合とは:宗教として一番重要な死と死後の世界については仏教が担当し、もう一つ重要な道徳的な面については儒教が担当する考え方です)

 

岩倉具視は明治時代の国葬第1号で神葬祭で執行されました。

 

神道的なお墓の「標」として目立つのは鳥居です。鳥居は本来は神社のシンボルです。そしてその神社には神が常駐する場所として社殿が誕生しました。

神道的なお墓に建てられる鳥居はそこに埋葬されている人が神であると告げているのです。

入り口に鳥居を建て、その1段高い壇上に墳墓を設け玉垣で囲むのがこの形式の典型のようです。そのお見本が八王子になる昭和天皇武蔵野陵です。

 

現在の墓石は基本的には宗旨宗派は問いません。

竿石の部分に「○○家奥津城」あるいは「○○家奥津」と彫ることはありますが、他はあまり異なることはありません。

大雑把に説明するならば納骨の時にお寺さんが来るかのか神主さんが来るのかとの違いぐらいです。信仰する宗教によってはお仲間が導師をされることもあります。

これも多くのカミが存在する日本らしい一面ではないでしょうか。

 

ご先祖様がいらしてこその今の自分です。人にはそれぞれご先祖様から与えられた役割と言うものがあります。

 

感謝の気持ちを忘れずに毎日を大切に過ごしたいですね。

 

今日という1日に感謝

 

合掌

今日は『宝塔』についてのお勉強です

『仏塔』とは仏教の創始者釈尊(お釈迦様)が80歳の生涯を終えて亡くなられたあと、荼毘に付されて、その遺骨を納めたお墓のことをいいます。そして釈尊の仏塔もインド古来の伝統に従い「ストゥーパ」と呼ばれます。

 

ストゥーパは釈尊亡き後の仏教徒にとって釈尊そのものであり、「法身仏」的な崇拝の対象で「宝物」であったはずです。そんな点から「ストゥーパ」は「宝塔」という言葉でシンボル化したと考えられます。

 

お経に『宝塔は如来の全身舎利」であるという表現が多く使われています。

 

『宝塔』には二つの異なる根拠があります。

ひとつは『法華経』で、もうひとつは『弘法大師空海』による密教的な解釈です。

 

法華経の中にこんなお話があります。

あるとき、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で聴衆を前に法華経を説いていると突然地中から七宝で飾った巨大な『宝塔』が出現し、空中高くそびえ立った。中から多宝仏が現れ大音声で『釈迦仏の説く法華経の教えは真実である』と褒め称え法華経の正しさを証明した。

 

一方、密教では弘法大師が高野山に多宝(=多宝塔)を造るとき、これを「法界体性塔」と名づけて密教的な意味づけをしました。

「法界体性」とは『地・水・火・風・空・識」の六大のことで、大日如来の象徴である『三昧耶身」つまり六大法身のことをいいます。それにより密教の宝塔は『大日宝塔』ともいわれます。

空海は著「性霊集」(しょうりょうしゅう)で仏道を完成されるためには、高野山金剛峰山に仏塔を建て、仏像を造ることが肝要であるといっています。

 

宝塔・多宝塔というのは「法華経」と「密教」の二つの意味づけをされ、それぞれに信じる宗派によって意味が異なるのです。

 

今週は雨の月曜日からのスタートとなり、少し肌寒く感じます。皆様、体調管理には十分気をつけて10月最後の週も元気に過ごしましょう

 

今日という1日に感謝

 

合掌

順番

今日は納骨式でした。

 

施主様からお孫さんが亡くなり1周忌に間に合わせて欲しいとお盆休み前に連絡がありました。墓地は清須市にある『日吉神社内 山王霊園』

 

お墓を建てるとお聞きすると、普通はご両親やパートナーなどと想像しますが、今回は生後44日で亡くなったお孫さんだとお聞きして本当に驚きました。

 

人の死には順番はありませんが、できれば順番があってもいいんじゃないかと思うことがあります。

小さな遺骨は可愛いBaby服に包まれて、お父さんの胸にしっかりと抱かれて墓地へ。

 

通常はサラシの袋に遺骨を納めるのですが、今回は小さな遺骨だとお聞きしていたので遺骨を包んで納骨できるようにしました。

本当に小さな遺骨と遺髪を包み、洋服の中にしっかりと納めて納骨しました。

 

竿石に巻かれたサラシは安産のお守りになると昔から言われています。その事を若いお母さんにお話したら是非持ち帰りたいと言ってくださいました。

今日は朝から本当に汗ばむような日差しでした。墓地も日当たりがよい場所なのできっとお孫さんもいつまでもママの胸に抱かれているよう安らかな眠りにつくでしょう。

詳しい納骨の様子は(有)犬正石材店HP 犬正NEWSをご覧ください

 

 

今日言う1日に感謝

 

 

合掌

家康公と大樹寺

昨日は女性部10月例会として『おかざき歴史教室』 主宰 市橋章男先生による卓話会でした。熱血教師であったと思わせるその情熱を今では歴史を分かりやすく1人でも多くの方に知ってもらおうと幅広くご活躍中です。

 

墓石ディレクターの勉強を始めてから昨日ほど自分も少しは知識が増えたかも?とちょっと嬉しくなりました。

 

家康公の棺は『久能山東照宮』にあり、遺体も立ったまま棺に納められているというのは前回のブログでも紹介しました。そして『真西に向けよ』と棺が大樹寺にむけて安置されていることもお話しました。

 

春と秋の彼岸の中日、つまり春分と秋分の日には太陽は真東に出て真西に沈む。太陽が真西に沈むはるかもこうには阿弥陀様の「西方極楽浄土」がある。

真西=極楽浄土=『聖地 岡崎』という図式が成立するそうです。

 

ちなみに久能山東照宮から鳳来寺・大樹寺に向けた真西ラインを『太陽の道』と言うそうです。

 

 

徳川家発祥の地は『世良田』という場所です。

久能山東照宮→富士山→世良田東照宮→日光東照宮

こちらは『不死の道』と言うそうです。

 

 

全国には同じ名前のお寺さんが存在しますが、『大樹寺』とい名前のお寺は岡崎に存在するだけ。大樹とは中国語で『将軍』という意味だそうです。ですから大樹寺は将軍だけを祀るお寺だったのです。

 

大樹寺の見所として 「多宝塔」(国重要文化財)があります。その中には純金の多宝仏として阿弥陀様が安置されています。2階部分にあたる場所に大樹寺を建てた方の名前が記されているそうです。墨でかかれかなり文字も薄くなっているそうですが、どうも家康公のおじいさんにあたる世良田という方のお名前が残されているそうです。

 

大樹寺の山門。正式には三門というそうです。このように呼ぶのは『知恩院』『増上寺』と『大樹寺』だけだそうです。

その意味は『空』『無相』『無願』という悟りに通ずる三つの解脱の境地を表す門(三解脱門)ということからです。

その三門の上の部分にあたる楼上には家康の9男である尾張初代藩主 義直が寄贈した釈迦3尊像が真南に安置されています。真南には岡崎城が見えます。大樹寺と岡崎城を結ぶビスタラインですね。

 

江戸時代の大樹寺図を見ますとかなり大樹寺は広大な敷地の中にあったことが分かります。

当時、滝山寺と大樹寺のどちらに東照宮を建設することになっていたそうですが、結局

大樹寺には東照宮を建てない代わりに『御霊屋』(みたまや)が2棟建てられたそうです。しかし明治になり「神仏分離令」が発令されるとこの御霊屋も取り壊しになりました。

しかし不思議なことに取り壊されたはずの『御霊屋』が存在するのです。もちろん岡崎市内です。扉には葵の御紋の名残がうっすらとわかるそうです。

市内のお寺には家康公ゆかりの品々が今でも残されているのです。

 

自分達が住み町を知るといことは大切ことです。

どの町にも歴史が存在するんですから^^

私達が生きている平成をいう時代は後世たちにはどう語り継がれていくのでしょうか?

 

 

今日という1日に感謝

 

合掌

今日は七福神のお話

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七福神のお名前を全部言えますか?

正解は・・・

恵比須(えびす)・大黒(だいこく)・弁天(べんてん)・毘沙門(びしゃもん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)です^^

 

七福神がいつ頃から信仰されるようになったのかは不明確ですが、一説によれば天海上人が徳川家康に『上様は七つの徳をお備えですね。寿老人の長寿、大黒の富財、福禄寿の人望、恵比寿の正直、弁財天の愛敬、毘沙門の威光、布袋の大量。この七神には七難即滅・七福即生の功徳があります。』と言ったのに家康がことのほか喜び、狩野法眼深幽に七福神の絵を描かせて尊崇、これを各諸大名が見習ったために全国に広まったのでは?と言われております。

 

寿老人=福禄寿はどちらも南極老人星(カノープス)のことです。インドではアガスティアと呼ぶようですが、この星は南の地平線ギリギリに見えるので、この星を見ることができたら長生きするという伝説があり、北斗信仰とも関わっているようです。

鹿を連れていたら寿老人、を連れていたら福禄寿だそうです。

 

布袋=中国の神ですが、これは七福神の中で通常唯一実在した人物であるとされます。

福徳の神・弥勒菩薩の化身と崇められたとのことです。

 

弁財天=インドではサラスヴァティで、ブラフマー(梵天)の娘であり妻でもある川の神ですが、日本での信仰では吉祥天との混同があり、学問と技芸の神とされましたが、後に富財の神ともみなされるようになりました。七福神の絵では琵琶を持った姿に描かれます。

 

毘沙門天=別名多聞天。元々光明神・幸福の神ですが、後には夜叉・羅刹を支配して国土を守護する武神とされました。

 

大黒=インド起源の大黒天に日本の大国主命の信仰が合体したものです。この神は両方の要素を引き継いでおり、古事記に見られる袋をかついだ大国様の要素とシヴァ神に見られる性の要素を持った豊饒の神・農耕神と考えられています。近年の絵では右側に袋をかつぎ、左手に打出小槌(うちでのこづち)を持っています。打出小槌の打面には如意宝珠の模様が入っています。

 

恵比寿=基本的な神格としては「えびす」という言葉のとおり、外界から来た稀人(まれびと)のことであったと思われますが、いざなぎ・いざなみの第一子である「ひるこ」が西宮に流れついて成長した神であるという伝説を元に「蛭子」と書いて「えびす」とも読みます。鯛を持った姿で描かれますので、漁業の神としての性質もあると考えられます。

 

一般にこの恵比須と大黒を特に取り上げて『恵比須・大黒』として家庭内などてよく祭っています。

七福神は江戸時代頃からしばしば宝船に乗った情景を描かれるようになりました。正月にこの宝船に乗った七福神の絵に『長き世のとをの眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな』という回文を添えて枕の下に入れると、よい夢が見られるという言い伝えがあります。興味のある方はどうぞお試しあれ^^

 

 家康公がらみのお話をひとつ

久能山東照宮と日光東照宮を地図上で直線で結んでみると、その線はどこを通るか?
ナント!富士山なんですって!驚きですね。
あと、家康公の遺言で棺は岡崎大樹寺に向かって祀られております。

 

長々とお話しましたが少しは参考になりましたか?

 

今日という1日に感謝  

 

合掌

今日は日蓮宗のお勉強です

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10月も半ばを過ぎたというのに日差しが強いですね。

こちらの写真は10月17日・18日の2日間開催された『第18回 岡崎ストーンフェア』でみかけた水鉢です。

 

では、本日は『日蓮宗』についてお話をします。

 

日蓮宗の開祖は日蓮聖人ですが、中性末までは「法華経」と呼ばれのちに『日蓮法華経』『題目宗』とも言われました。近年になり身延山の「久遠時」を総本山とする宗教法人『日蓮宗』となりました。

 

日蓮はこの世を『浄土国土』とすることを志し、また自分をそのための苦難に耐えて精進努力する『菩薩』『法華経の行者』と自覚します。53歳で罪を許された後は身延山に隠棲して人生や人間への内省を深めます。61歳のときに病気治療のために身延山を降りて常陸の温泉に向かう途中で池上で亡くなりました。

 

日蓮は比叡山で学んだ天台法華の教えが根本にあります。それは日蓮宗でもっとも大切にされる『法華経』如来寿陵量品第16に説かれる「久遠実成の釈迦如来」という考えです。

 

『久遠実成の釈迦如来』とは80歳で生涯を終えた人間としての釈尊ではなく、如来としての釈迦はとてつもない過去から尽きることのない未来までの永遠(久遠)に宇宙全体に存在しているという意味です。

『法華経」の久遠実成の釈迦如来を根本の宗旨とする日蓮にとってこの世の「生死」は単なる人間の「生き死に」ではないのです。

 

日蓮は永久の宇宙に『久遠実成の釈迦如来』がいるのなら「生と死」の世界はなく、本来「浄土」であるとして現実の『生と死』を「浄土」としていくことで、生死を乗り越えていこうとします。

こうした「この世は本来悟りの世界」であるとする考えは中国以来の仏教から生まれ『本覚思想」といいます。

日蓮は『法華経』によって本覚思想に経つ鎌倉新仏教の一派を生み出しのです。

そして『即身成仏』は日蓮宗にとっても大切な要語になっているのです。

つまり『法華経』により煩悩の多い我々も皆、お題目を唱えたり聞くことによってこの身のまま成仏できるというのです。(お題目:南無妙法蓮華経)

 

日蓮宗の成仏は『即身成仏』だけでなく、死後も日蓮の説く「浄土」へいって成仏することを意味しています。(日蓮宗では浄土へ往く事を『往詣』といいます)

 

仏教というのは本当に奥が深いです。

月曜日から難しいお話をしましたが、いかがでしたか?

 

今週はおかざき歴史教室を主宰されている市橋先生に会議所女性部の10月例会として卓話をお願いしてあります。『家康と大樹寺』とうテーマですが、どんなお話が聞けるのかワクワクしています。皆様にもご紹介が出来るようにメモメモしてきます。

 

今日という1日に感謝

 

合掌

今日は外柵工事

今日はS家の外柵工事を行いました。

 

天候にも恵まれて工事日和となりました。

 

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四隅はすべて耐震用接着剤を使用します。

 

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耐震用接着剤を注入後にはステンレスのコーナー金具で固定します。

 

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巻石の上に舞台型の外柵を設置します。今回は墓誌を右側に置きますので墓石はやや左側に建ちます。限られた場所の中でもお客様のご意向に沿うように何度も打ち合わせを重ねます。

四角い空洞の部分が遺骨を納める場所となります。通常、川砂を敷きます。お墓の中に入った雨水などの排水も兼ねています。舞台の部分は生コンを入れて自然乾燥で固めます。しばらくこのままでしっかりと乾かし舞台型外柵の完成となります。次回はいよいよ本体工事です。

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